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倶楽部設立の歴史

周南カントリー倶楽部

ゴルフを知らずに誘致を計画した熊毛町。
昭和41年、最後の社団法人倶楽部となった。

昭和40年頃の10番(旧1番)ホール

昭和40年頃の10番(旧1番)ホール

昭和38年。日本が、オリンピックを1年後に控え、戦後経済の最初の繁栄ピークにさしかかった年だった。山口県でも、徳山市(現、周南市)を中心に、徳山曹達(現、トクヤマ)東洋曹達(現、東ソー)出光興産、日立、帝人、武田薬品などが進出、石油化学コンビナートが拡大中だった。その後背地にゴルフ場新設の機運が起こるのは自然の成り行きだった。近くの山口CCだけでは不便。いち早く動いたのは熊毛郡熊毛町(現、周南市)で、ゴルフ場誘致プロジェクトをスタートさせ、素早く候補地も内定した。

しかしゴルフをよく知る発起人代表にふさわしい人物がいない。
当時、山口県には“天皇”と言われる大物財界人が3人いた。下関の中部利三郎(林兼産業)、宇部の中安閑一(宇部興産)、そして徳山曹達(現、トクヤマ)の蔭山如信だった。中部はすでに下関GC(昭和31年)を仕上げ、中部は宇部CC万年池東コースを計画中だった。昭和38年12月、候補地を内定した熊毛町当局は、徳山曹達の蔭山如信の絶大なリーダーシップに賭けることにした。

昭和39年正月、熊毛町長らは蔭山邸を訪れ、ゴルフ場計画を熱く訴えた。瞑目して聞いていた蔭山は、目を大きく開くと「やりましょう」とただひと言だったと、関係者は書く。
蔭山如信は、神戸の有名企業・岩井商店の出身。同社は後に岩井産業(現、日商岩井、双日)となって、系列企業網を拡大する。また神戸で実業界入りした蔭山は、ゴルフも堪能だった。その縁かどうか、コースを設計した福井八十八も、神戸の鳴尾GCで芝管理の仕事をしていた。日本のプロ第1号鳴尾GCの福井寛治の親戚である。戦後西宮CCグリーンキーパーの後、設計家に転じ設計19、監修4の仕事を残している。
中でも周南CCは、彼の自信作である。
昭和41年1月15日開場。“周南”は周防国南部の意。
現在はコンビナートの各企業の事業所長などが理事となり運営している。

(ゴルフダイジェスト:ゴルフの歴史を歩こうより)

岩井商店

岩井勝次郎(いわい かつじろう)は日本の実業家。岩井商店の創業者であり、多角化戦略により岩井財閥を形成した。京都府南桑田郡旭村の農家に生まれる。(旧姓・蔭山)
明治後期から大正期にかけて、多くの岩井系企業を設立していった。その重要なものは関西ペイント・東亜紡績(現、トーア紡コーポレーション)・日新製鋼・徳山曹達(現、トクヤマ)・日本橋梁・大阪繊維工業(現、ダイセル)・富士フィルム などで、日本の産業革命期に多くの工業企業を設立して、自らも大正5年に岩井財閥の持株会社として合資会社岩井商店を創設し関西実業界の立役者になった。

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